突破するちからと思い
- 2014/11/03
- 08:40


<エンターテインメント>
磨き上げた芸で、
お客様を楽しませるパフォーマンスや、
感動や笑いを呼ぶ舞台を創る仕事があります。
舞台や映像を見たお客様のダイレクトな反応が、
仕事の評価。
これがエンターテインメントの醍醐味ともいえます。
関連サイト http://nariwaijob.com
「エンターテインメントの世界に携わりアメリカで働きたい!」
夢実現プロジェクト、ただいま進行中
南谷 智恵さん(制作プロデューサー)
【モットー】
やりたい!観たい!行ってみたい!気持ちは必ず実現する
【なりわいのすじみち】
子どものころの、夏休みの家族恒例行事は映画やお芝居の観賞。高校卒業後は映像制作を学ぶため専門学校へ。卒業後、制作会社に勤務したのち、映像の知識を習得するためアメリカへ留学し、2009年9月に帰国。帰国後は、制作プロダクションを立ち上げ、現在は国内で制作の仕事を請け負う。
意にそぐわないかたちで進んだ女子短大は1年で辞め、両親を説き伏せて映像 制作を学ぶため専門学校へ。留学先では学費値上げという困難に遭遇し一度は進学が危うくなるも、多方面への相談と足を使ってのリサーチで別の進路を見いだ す。断固とした意志と粘り強さ、交渉力、リサーチ力で壁を次々と突破してきた。 |
●壁0~狭き門だった志望高校へ
子どものこ ろ、南谷家の夏休みの家族恒例行事は、キャンプでも遊園地でもなく、子ども向けミュージカルなどエンターテインメント観賞だった。 南谷さんはそうしたエンターテインメント作品を通して知るアメリカの暮らし、アメリカの雰囲気に、憧れた。その延長で、英語にもとても興味が湧いた。
高 校進学にあたっては、そんな彼女を気にかけてくれた家族が、帰国子女を多く受け入れている高校を見つけてくれた。その学校はしかし、倍率が高い難関校。教 師からは志望校を見直すようにアドバイスされた。だがその学校を第一志望にして、第二志望にも、偏差値的にぎりぎりの人気校を据えるという思い切った方法 で受験にのぞんだ。
そんななか本番での強さと熱意が功を奏したのか、周囲の心配をよそに、無事第一志望合格を果たした。
進学し たその私立高校は普通の公立高校などとはまったく異質の環境だった。さまざまな国からの帰国子女たちが、現地で使っていた言葉で会話している。フランス語 や米語・英語など現地の言語をフォローするための特別授業も行われていた。それが当たり前の日常として繰り広げられていたことは、南谷さんのその後の方向 付けをするひとつの要素となる。
高校生のころは、レンタルビデオや映画専門チャンネルで、とにかく映画を観まくった。
ほとんど徹夜で映画を観てから登校する、という日もあった。観ていたのは多くが洋画。なかでも、やはりアメリカ映画の世界に憧れた。やがて、何をしに、というのでもなく漠然と「アメリカに行きたい」との思いがわき、親をはじめ周囲に「アメリカに行く!」と宣言し回った。
●壁1~大学2度のチャレンジ、短大、専門学校
大 学は、映像制作を学べる日大芸術学部への進学を希望した。しかし、日芸は、昔も今も狭き門。一年目は不合格になった。1年浪人して予備校に通って勉強した が2年目も失敗。両親からは、女の子が2浪なんて…と許してもらえず、いったん女子短大に進学した。入学式の日に母親に「私、この学校、辞めるかも」。高 校のようにクラス分けされた授業に、ヒールを履きブランドものの服やバッグを身につけた学生たち。イメージした「キャンパスライフ」ではなかった。宣言ど おり1年生の前期が終わったころ、辞めると決め、母親の、「せめて休学に」との希望にしぶしぶうなずいて休学することになった。
そして両親を、「受験費用は自分で出すから」と説得し、1年間を大学への再チャレンジの準備にあてた。
目標を定めたら、何をすべきかを検討し、算段し、計画を立て、行動に移す。もともと備わっていた意志の強さに加え、徐々にそうした実行力が実践を伴って醸 成されていった。 そして1年間の受験準備ののち、日大芸術学部と東京工芸大学の受験に臨む。しかし今度も、どちらも狭き門だった。
今度は道は変えない。そう心に決めていた。両親には正直に、短大には戻らないこと、映像制作を学びたいので専門学校に進学したいことを話した。再受験に向 けた1年間の努力、短大に戻りたくない理由、そのかわり自分はどうしたいのか。明確に説明して両親を説得した。すると、承諾してくれたのだ。母親は「あな たは決めたら反対しても実行に移すのだから…」。あきらめの気持ちもあったのかもしれない。
こうして、大好きなエンターテインメントをつくる側になるための入口に立つことが出来た。
入 学した東京ビジュアルアーツ専門学校では、シナリオや撮影、編集など映像制作のハウトゥーをひと通り学んだ。メインは映画制作などの実習だ。映像を完成さ せるには脚本、撮影、演出などさまざまな役割と工程があるが、最も強く興味が湧いたのは編集の作業だった。編集は、撮影した映像をひとつの作品として仕上 げるための最終工程だ。
全体のテーマや個々のシーンの持つ意味、目的に合った長さなど作品全体に対する理解、個々のシーンの要不要を決める判断力、どう見せるかという創造性が必 要とされる。編集工程で作品そのものの善し悪しが決まってしまうといっても過言ではない。その醍醐味や創作性に強く心が引かれた。そこで学校では編集の授 業を重点的に履修した。
●メンターといえる女性ディレクターとの出会い
専門学校を卒業しても、就職先を見つけるのは難しかった。東北新社など大手の映像制作会社で採用されるのは、ほとんどが4年制の一流大学卒の者で、専門学校の卒業生が採用される可能性は極めて低かった。
編集の業務をやりたいと考えていたので、授業がないときには機材室に頻繁に足が向いた。管理を任されているアシスタントティーチャーと話をするためだ。そ の先生が、もしその気があれば、とテレビの編集を主業務とする会社を紹介してくれた。NHKの番組を多く手がけているという。一も二もなく飛びついた。
入社後は、国際ニュースの番組に携わることになった。この仕事は、突発的に大きなニュースが入ってくることもあり、業務時間が不規則だった。終電で帰れれ ばよいほう。連日徹夜ということもあった。郊外の実家から通っていた南谷さんは通勤が大変だ。一人暮らしをしたいと申し出たが、両親から反対され断念し た。
編集の際は、ディレクターとシーンの長さなどを相談しながら作業を行う。そうしたディレクターのなかで最も親しくなった女性ディレク ターがいた。彼女とは、作業途中に仕事のほかいろいろなことを話すようになった。女性ディレクターは、南谷さんのその後に大きな影響を与えるメンター的存 在になる。
ちょうどそのころ「レント」というブロードウェイミュージカルが日本でも上演されることになった。南谷さんは、公休日に、母親と観に行くためのチケットを早々と入手していた。
●「レント」と、初めてのアメリカの地
南谷さんは、国際ニュース番組のあと、特番の担当になった。偶然にも親しくなった女性ディレクターが一緒だ。再び編集作業の際に、いろいろな話をするようになった。 そのなかで「レント」の話が出た。
レントの作者ラーソンは、レントを書き上げた後、作品がオフオフブロードウェイで上演される初日の前日、35歳という若さで亡くなった。その後舞台は大盛況に。作品と、故ラーソンには数々の栄誉ある賞が贈られた。
レントには少数民族、麻薬中毒者、HIV感染者など社会的マイノリティが登場するが、急逝した作家ラーソンの経緯にも重なる部分があり、非常に興味深い作品だ。一部には熱狂的なファンがいる。
女性ディレクターとは、これで企画を立てたら面白いよね…という話になった。南谷さんはトライアルで企画書を作ることに。企画を立てるのは初めての経験だ。ディレクターに相談し、試行錯誤しながら企画書づくりにチャレンジした。
企画自体は、実現に至らなかったが、このとき南谷さんは、企画を立て能動的に新しい番組作りに関わることの面白さを知った。「エンターテインメントについて、もっと勉強したい!」…でもまた学校に入るための勉強をするのは考えただけで、苦痛だった。
そうした葛藤をディレクターに話してみると「留学しちゃえば」。彼女は留学経験者だった。
アメリカの大学だったら、入るのに厳しい試験がない。「でもその代わり、卒業するのは大変だよ」という。とはいえ目の前に新しい道が拓けた気がした。
多忙な日が続き、やっと夏休みが取れることになったときには、何をする予定もなかった。仕事が入ってレントの鑑賞券は父親にあげ、友達と予定していた温泉旅行もキャンセルせざるを得なかったのだ。
女性ディレクターに夏休みの予定を聞いてみると「ニューカレドニアに一人で行ってくる」という。それまで一人旅、それも海外へ、などという発想すらなかっ た南谷さんは大きな刺激を受けた。レントにも温泉旅行にも行けなかったのだから、自分も本場ニューヨークにレントを観に行っちゃおう!
まったくの一人旅はまだ少し敷居が高かった。そこで、これを機に語学力も少しアップをと、ホームステイ先での語学研修付きプランを選んだ。
初めての、アメリカの空気。心が弾んだ。留学に一歩近づいた!
ホストファミリーでは、「ミュージカルを観に行きたい」というと、普通は半日のフリータイムを1日にしてくれて、ホストファミリーのお嬢さんたちと一緒に観に行くことができた。
旅行から帰った後も本格的に留学情報を集めた。そのなかで「条件付き留学」というものがあることを知る。指定された大学への進学を条件に、進学する前に系 列の語学学校で英語を学び英語力を習得するというプランだった。これなら多少英語力がなくても、大学に行く道が開く。
●壁2:憧れのアメリカ生活を前に9.11が
間もなく南谷さんは異動になった。今度はニュースではなくレギュラー番組の担当となった。担当する番組の制作がいったん終わると次の番組の制作に入るまで休みとなる。 そこで休みの日は留学についての情報を集めた。
留学に関しては、両親からの反対を覚悟した。何しろ、一人暮らしさえ反対されたのだ。ところが会社を辞めて、映像制作のことをもっと学びたいので留学した い、という自分の気持ちを説明すると「もう好きにしたらいい」という返事。社会人となったからには、自分のことは自分で責任をとれという気持ちもあったの だろう。
会社は、制作を担当した番組の区切りに合わせて2001年4月に退職した。留学費用にはそれまでお給料から貯めてきた分をつぎ込んだ。
それからは、9月入学に向けた、実質的な準備に入った。まず留学先の学校を、東海岸ののニューヨークと、西海岸のサンノゼに一校ずつ決めた。
し かしここで予期せぬ大きな問題が起こった。9.11テロ事件だ。事件は、アラブ系留学生が実行犯とあり、アメリカではとくに留学生に対する規制が強まって いた。日本人である南谷さんも例外ではなかった。そこでニューヨークの大学を選択肢からはずし、ビザ申請を始めた。1年間のビザしかおりないことも予想さ れたが、幸いにも5年ビザを取得することができた。
やっと、長い間憧れ続けたアメリカ生活に向けたスタートラインに立ったのだ。
2002年2月、南谷さんは晴れてアメリカに向けて旅立った。
現地ではまず、最初に入学した半年間の語学学校で、英語漬けの毎日が始まった。なにしろ短期間でカレッジの授業を受けられるだけの英語力を身につける必要 があるのだ。ヨーロッパ、アジア、南米などあらゆる国から来た「同級生」とともに、英文法、リーディング、会話、プレゼンテーションなどの学習に「錆つき かけていた」脳味噌をフル回転させた。
猛勉強の末、2002年8月からカリフォルニアのサンノゼにあるカレッジへ入学。ここで一般教養を学んだのち映像について専門的なことを学ぶためにユニバーシティ(大学)に進学しようと予定した。
サンノゼの短大でも猛勉強。ずっと勉強は嫌いで、映像制作を改めて本格的に学びたいと考えたときも、日本の大学で一から学びなおすなど到底考えられなかった。
し かしこのときばかりは毎日、自分でもびっくりするぐらい勉強ばかりしていた。授業で出される課題が多いから、徹夜は日常茶飯事。分からないことがあれば、 授業が終わったあとに先生に聞きに行ったり、日本人の友人を捕まえてノートを借りた。そのころのノートは、必死になって聞きもらすまいとした授業の内容を 英語では書ききれず、一部がカタカナになっているという。
●壁3:予想外の学費値上げ。さあどうする?
サンノゼでは、自分で見つけたルームメイトとシェアルームに住み、猛勉強の傍ら、それなりに充実した毎日を送っていた。
しかし、学費がみるみる上がってきた。
生活はたちまちカツカツになった。このままでは、短大は1年間で切り上げるか、アルバイトするしかないかも…。 そんなとき、これまで娘の言動にあまり口を出さなかった父親が、口を出した。
父 親は、会社での研修旅行でしばしばアメリカに来ることがあり、ときおり、飲食店で日本人留学生に接する機会があった。その多くが、アルバイトが忙しくなり すぎて勉強にまで手が回らず、卒業できないままビザが切れてもアメリカにいるという話を、父はした。南谷さんは、ヒヤリとした。
父親は、どうせ留学したのならきちんと最後まで勉強してこい、という。なんと父の援助で留学を続けられることになった。
さ らに南谷さんはスクールカウンセラーからのアドバイスで、学費が比較的安く、専門科目も学べる、同じカリフォルニアにあるロングビーチの短大に転校するこ とにした。 2校目の短大では、Radio/TV学部 Producer専攻の授業を履修してAA Degreeを取得しOPTを、また、マルチメディア専攻の課目も履修し、同専攻の修了証を取得した。 なお、OPT(Optional Practical Training)とは、取得すればアメリカの会社で1年間就労出来るものだ。
ロングビーチでは、ルームメイトなしの、まったく一人暮らしも経験した。
●壁4:就労ビザが取得できない!
ロングビーチで3年間がんばったのち、短大卒資格とOPTを取得した南谷さんはロサンゼルスにある日系の映像制作会社に雇ってもらえることになった。仕事は イベント会場や劇場の手配や営業担当者のアシスタント。営業の一環で日本人が集う異業種交流会に足を運ぶこともあった。異業種交流会で出会った縁から、仕 事の依頼も来た。もともと人とのつながりを大切にしていたが、ビジネスの現場でも人とのつながりで次の仕事が生まれることがあることを、この時期に体験を 持って知った。
そうやってアメリカで就労生活を送っているうちにOPTの期限である1年の終わりが迫ってきた。アメリカでこのまま仕事を 続けたい…。南谷さんは移民専門の弁護士に相談し、なんとか就労期間を延長できるビザに切り替えることができないかとあらゆる手を尽くした。しかし、尽く す手はすべて尽くしても結局、就労ビザ取得はかなわず、2009年に帰国することになった。
●日本とアメリカをつなぐかけ橋として将来はアメリカへ
一旦帰国したとはいえ、アメリカで働くという夢を諦めたわけではない。ビザの件で相談した弁護士とは引き続き連絡をとり、将来の可能性につながる手段を講じている。
そのひとつが、アメリカで「Production Ange, LLC」を立ち上げたこと。LLC(有限会社)というのは、資本が少なくて済み、比較的設立が容易な企業体だ。将来アメリカで仕事を…と考えているなら、と弁護士からアドバイスされた。
帰国後は、フリーランスの制作プロデューサー・コーディネーターとして、これまでの人脈などから、ビジネスサミットの運営事務局、CM撮影の現場コーディネート、舞台製作などさまざまな仕事に携わった。
またフリーランスとして活動していると、カメラマンを誰か知らないか、こんな仕事を受けてくれる人はいないかなど多方面から相談事を受ける。たとえ自分の専 門外だとしても、相談にはあらゆる手を尽くして応えることにしている。こうした姿勢がまた、次の仕事につながると考えているからだ。
将来何がやりたいかと問われれば迷わず「エンターテインメント」と答える。アメリカに行ったのも、制作会社に入ったのも、もとをたどれば、映画や舞台を通してアメリカの空気感やアメリカ発のエンターテインメントにあこがれたからだ。今度はその世界を作りだす側に回りたい。
目標はアメリカに拠点を構えて日本と行き来しながら、エンターテインメントに携わる仕事を本格的に展開すること。南谷さんの「夢実現プロジェクト」は現在、着々と進行中だ。
Production Ange, LLC
http://jp.linkedin.com/in/chienantani
南谷さんのお仕事6箇条
子どものこ ろ、南谷家の夏休みの家族恒例行事は、キャンプでも遊園地でもなく、子ども向けミュージカルなどエンターテインメント観賞だった。 南谷さんはそうしたエンターテインメント作品を通して知るアメリカの暮らし、アメリカの雰囲気に、憧れた。その延長で、英語にもとても興味が湧いた。
高 校進学にあたっては、そんな彼女を気にかけてくれた家族が、帰国子女を多く受け入れている高校を見つけてくれた。その学校はしかし、倍率が高い難関校。教 師からは志望校を見直すようにアドバイスされた。だがその学校を第一志望にして、第二志望にも、偏差値的にぎりぎりの人気校を据えるという思い切った方法 で受験にのぞんだ。
そんななか本番での強さと熱意が功を奏したのか、周囲の心配をよそに、無事第一志望合格を果たした。
進学し たその私立高校は普通の公立高校などとはまったく異質の環境だった。さまざまな国からの帰国子女たちが、現地で使っていた言葉で会話している。フランス語 や米語・英語など現地の言語をフォローするための特別授業も行われていた。それが当たり前の日常として繰り広げられていたことは、南谷さんのその後の方向 付けをするひとつの要素となる。
高校生のころは、レンタルビデオや映画専門チャンネルで、とにかく映画を観まくった。
ほとんど徹夜で映画を観てから登校する、という日もあった。観ていたのは多くが洋画。なかでも、やはりアメリカ映画の世界に憧れた。やがて、何をしに、というのでもなく漠然と「アメリカに行きたい」との思いがわき、親をはじめ周囲に「アメリカに行く!」と宣言し回った。
●壁1~大学2度のチャレンジ、短大、専門学校
大 学は、映像制作を学べる日大芸術学部への進学を希望した。しかし、日芸は、昔も今も狭き門。一年目は不合格になった。1年浪人して予備校に通って勉強した が2年目も失敗。両親からは、女の子が2浪なんて…と許してもらえず、いったん女子短大に進学した。入学式の日に母親に「私、この学校、辞めるかも」。高 校のようにクラス分けされた授業に、ヒールを履きブランドものの服やバッグを身につけた学生たち。イメージした「キャンパスライフ」ではなかった。宣言ど おり1年生の前期が終わったころ、辞めると決め、母親の、「せめて休学に」との希望にしぶしぶうなずいて休学することになった。
そして両親を、「受験費用は自分で出すから」と説得し、1年間を大学への再チャレンジの準備にあてた。
目標を定めたら、何をすべきかを検討し、算段し、計画を立て、行動に移す。もともと備わっていた意志の強さに加え、徐々にそうした実行力が実践を伴って醸 成されていった。 そして1年間の受験準備ののち、日大芸術学部と東京工芸大学の受験に臨む。しかし今度も、どちらも狭き門だった。
今度は道は変えない。そう心に決めていた。両親には正直に、短大には戻らないこと、映像制作を学びたいので専門学校に進学したいことを話した。再受験に向 けた1年間の努力、短大に戻りたくない理由、そのかわり自分はどうしたいのか。明確に説明して両親を説得した。すると、承諾してくれたのだ。母親は「あな たは決めたら反対しても実行に移すのだから…」。あきらめの気持ちもあったのかもしれない。
こうして、大好きなエンターテインメントをつくる側になるための入口に立つことが出来た。
入 学した東京ビジュアルアーツ専門学校では、シナリオや撮影、編集など映像制作のハウトゥーをひと通り学んだ。メインは映画制作などの実習だ。映像を完成さ せるには脚本、撮影、演出などさまざまな役割と工程があるが、最も強く興味が湧いたのは編集の作業だった。編集は、撮影した映像をひとつの作品として仕上 げるための最終工程だ。
全体のテーマや個々のシーンの持つ意味、目的に合った長さなど作品全体に対する理解、個々のシーンの要不要を決める判断力、どう見せるかという創造性が必 要とされる。編集工程で作品そのものの善し悪しが決まってしまうといっても過言ではない。その醍醐味や創作性に強く心が引かれた。そこで学校では編集の授 業を重点的に履修した。
●メンターといえる女性ディレクターとの出会い
専門学校を卒業しても、就職先を見つけるのは難しかった。東北新社など大手の映像制作会社で採用されるのは、ほとんどが4年制の一流大学卒の者で、専門学校の卒業生が採用される可能性は極めて低かった。
編集の業務をやりたいと考えていたので、授業がないときには機材室に頻繁に足が向いた。管理を任されているアシスタントティーチャーと話をするためだ。そ の先生が、もしその気があれば、とテレビの編集を主業務とする会社を紹介してくれた。NHKの番組を多く手がけているという。一も二もなく飛びついた。
入社後は、国際ニュースの番組に携わることになった。この仕事は、突発的に大きなニュースが入ってくることもあり、業務時間が不規則だった。終電で帰れれ ばよいほう。連日徹夜ということもあった。郊外の実家から通っていた南谷さんは通勤が大変だ。一人暮らしをしたいと申し出たが、両親から反対され断念し た。
編集の際は、ディレクターとシーンの長さなどを相談しながら作業を行う。そうしたディレクターのなかで最も親しくなった女性ディレク ターがいた。彼女とは、作業途中に仕事のほかいろいろなことを話すようになった。女性ディレクターは、南谷さんのその後に大きな影響を与えるメンター的存 在になる。
ちょうどそのころ「レント」というブロードウェイミュージカルが日本でも上演されることになった。南谷さんは、公休日に、母親と観に行くためのチケットを早々と入手していた。
●「レント」と、初めてのアメリカの地
南谷さんは、国際ニュース番組のあと、特番の担当になった。偶然にも親しくなった女性ディレクターが一緒だ。再び編集作業の際に、いろいろな話をするようになった。 そのなかで「レント」の話が出た。
レントの作者ラーソンは、レントを書き上げた後、作品がオフオフブロードウェイで上演される初日の前日、35歳という若さで亡くなった。その後舞台は大盛況に。作品と、故ラーソンには数々の栄誉ある賞が贈られた。
レントには少数民族、麻薬中毒者、HIV感染者など社会的マイノリティが登場するが、急逝した作家ラーソンの経緯にも重なる部分があり、非常に興味深い作品だ。一部には熱狂的なファンがいる。
女性ディレクターとは、これで企画を立てたら面白いよね…という話になった。南谷さんはトライアルで企画書を作ることに。企画を立てるのは初めての経験だ。ディレクターに相談し、試行錯誤しながら企画書づくりにチャレンジした。
企画自体は、実現に至らなかったが、このとき南谷さんは、企画を立て能動的に新しい番組作りに関わることの面白さを知った。「エンターテインメントについて、もっと勉強したい!」…でもまた学校に入るための勉強をするのは考えただけで、苦痛だった。
そうした葛藤をディレクターに話してみると「留学しちゃえば」。彼女は留学経験者だった。
アメリカの大学だったら、入るのに厳しい試験がない。「でもその代わり、卒業するのは大変だよ」という。とはいえ目の前に新しい道が拓けた気がした。
多忙な日が続き、やっと夏休みが取れることになったときには、何をする予定もなかった。仕事が入ってレントの鑑賞券は父親にあげ、友達と予定していた温泉旅行もキャンセルせざるを得なかったのだ。
女性ディレクターに夏休みの予定を聞いてみると「ニューカレドニアに一人で行ってくる」という。それまで一人旅、それも海外へ、などという発想すらなかっ た南谷さんは大きな刺激を受けた。レントにも温泉旅行にも行けなかったのだから、自分も本場ニューヨークにレントを観に行っちゃおう!
まったくの一人旅はまだ少し敷居が高かった。そこで、これを機に語学力も少しアップをと、ホームステイ先での語学研修付きプランを選んだ。
初めての、アメリカの空気。心が弾んだ。留学に一歩近づいた!
ホストファミリーでは、「ミュージカルを観に行きたい」というと、普通は半日のフリータイムを1日にしてくれて、ホストファミリーのお嬢さんたちと一緒に観に行くことができた。
旅行から帰った後も本格的に留学情報を集めた。そのなかで「条件付き留学」というものがあることを知る。指定された大学への進学を条件に、進学する前に系 列の語学学校で英語を学び英語力を習得するというプランだった。これなら多少英語力がなくても、大学に行く道が開く。
●壁2:憧れのアメリカ生活を前に9.11が

留学に関しては、両親からの反対を覚悟した。何しろ、一人暮らしさえ反対されたのだ。ところが会社を辞めて、映像制作のことをもっと学びたいので留学した い、という自分の気持ちを説明すると「もう好きにしたらいい」という返事。社会人となったからには、自分のことは自分で責任をとれという気持ちもあったの だろう。
会社は、制作を担当した番組の区切りに合わせて2001年4月に退職した。留学費用にはそれまでお給料から貯めてきた分をつぎ込んだ。
それからは、9月入学に向けた、実質的な準備に入った。まず留学先の学校を、東海岸ののニューヨークと、西海岸のサンノゼに一校ずつ決めた。
し かしここで予期せぬ大きな問題が起こった。9.11テロ事件だ。事件は、アラブ系留学生が実行犯とあり、アメリカではとくに留学生に対する規制が強まって いた。日本人である南谷さんも例外ではなかった。そこでニューヨークの大学を選択肢からはずし、ビザ申請を始めた。1年間のビザしかおりないことも予想さ れたが、幸いにも5年ビザを取得することができた。
やっと、長い間憧れ続けたアメリカ生活に向けたスタートラインに立ったのだ。

現地ではまず、最初に入学した半年間の語学学校で、英語漬けの毎日が始まった。なにしろ短期間でカレッジの授業を受けられるだけの英語力を身につける必要 があるのだ。ヨーロッパ、アジア、南米などあらゆる国から来た「同級生」とともに、英文法、リーディング、会話、プレゼンテーションなどの学習に「錆つき かけていた」脳味噌をフル回転させた。
猛勉強の末、2002年8月からカリフォルニアのサンノゼにあるカレッジへ入学。ここで一般教養を学んだのち映像について専門的なことを学ぶためにユニバーシティ(大学)に進学しようと予定した。
サンノゼの短大でも猛勉強。ずっと勉強は嫌いで、映像制作を改めて本格的に学びたいと考えたときも、日本の大学で一から学びなおすなど到底考えられなかった。
し かしこのときばかりは毎日、自分でもびっくりするぐらい勉強ばかりしていた。授業で出される課題が多いから、徹夜は日常茶飯事。分からないことがあれば、 授業が終わったあとに先生に聞きに行ったり、日本人の友人を捕まえてノートを借りた。そのころのノートは、必死になって聞きもらすまいとした授業の内容を 英語では書ききれず、一部がカタカナになっているという。
●壁3:予想外の学費値上げ。さあどうする?
サンノゼでは、自分で見つけたルームメイトとシェアルームに住み、猛勉強の傍ら、それなりに充実した毎日を送っていた。
しかし、学費がみるみる上がってきた。
生活はたちまちカツカツになった。このままでは、短大は1年間で切り上げるか、アルバイトするしかないかも…。 そんなとき、これまで娘の言動にあまり口を出さなかった父親が、口を出した。
父 親は、会社での研修旅行でしばしばアメリカに来ることがあり、ときおり、飲食店で日本人留学生に接する機会があった。その多くが、アルバイトが忙しくなり すぎて勉強にまで手が回らず、卒業できないままビザが切れてもアメリカにいるという話を、父はした。南谷さんは、ヒヤリとした。
父親は、どうせ留学したのならきちんと最後まで勉強してこい、という。なんと父の援助で留学を続けられることになった。
さ らに南谷さんはスクールカウンセラーからのアドバイスで、学費が比較的安く、専門科目も学べる、同じカリフォルニアにあるロングビーチの短大に転校するこ とにした。 2校目の短大では、Radio/TV学部 Producer専攻の授業を履修してAA Degreeを取得しOPTを、また、マルチメディア専攻の課目も履修し、同専攻の修了証を取得した。 なお、OPT(Optional Practical Training)とは、取得すればアメリカの会社で1年間就労出来るものだ。
ロングビーチでは、ルームメイトなしの、まったく一人暮らしも経験した。
●壁4:就労ビザが取得できない!
ロングビーチで3年間がんばったのち、短大卒資格とOPTを取得した南谷さんはロサンゼルスにある日系の映像制作会社に雇ってもらえることになった。仕事は イベント会場や劇場の手配や営業担当者のアシスタント。営業の一環で日本人が集う異業種交流会に足を運ぶこともあった。異業種交流会で出会った縁から、仕 事の依頼も来た。もともと人とのつながりを大切にしていたが、ビジネスの現場でも人とのつながりで次の仕事が生まれることがあることを、この時期に体験を 持って知った。
そうやってアメリカで就労生活を送っているうちにOPTの期限である1年の終わりが迫ってきた。アメリカでこのまま仕事を 続けたい…。南谷さんは移民専門の弁護士に相談し、なんとか就労期間を延長できるビザに切り替えることができないかとあらゆる手を尽くした。しかし、尽く す手はすべて尽くしても結局、就労ビザ取得はかなわず、2009年に帰国することになった。
●日本とアメリカをつなぐかけ橋として将来はアメリカへ

そのひとつが、アメリカで「Production Ange, LLC」を立ち上げたこと。LLC(有限会社)というのは、資本が少なくて済み、比較的設立が容易な企業体だ。将来アメリカで仕事を…と考えているなら、と弁護士からアドバイスされた。
帰国後は、フリーランスの制作プロデューサー・コーディネーターとして、これまでの人脈などから、ビジネスサミットの運営事務局、CM撮影の現場コーディネート、舞台製作などさまざまな仕事に携わった。
またフリーランスとして活動していると、カメラマンを誰か知らないか、こんな仕事を受けてくれる人はいないかなど多方面から相談事を受ける。たとえ自分の専 門外だとしても、相談にはあらゆる手を尽くして応えることにしている。こうした姿勢がまた、次の仕事につながると考えているからだ。
将来何がやりたいかと問われれば迷わず「エンターテインメント」と答える。アメリカに行ったのも、制作会社に入ったのも、もとをたどれば、映画や舞台を通してアメリカの空気感やアメリカ発のエンターテインメントにあこがれたからだ。今度はその世界を作りだす側に回りたい。
目標はアメリカに拠点を構えて日本と行き来しながら、エンターテインメントに携わる仕事を本格的に展開すること。南谷さんの「夢実現プロジェクト」は現在、着々と進行中だ。
Production Ange, LLC
http://jp.linkedin.com/in/chienantani
南谷さんのお仕事6箇条
●夢ややりたいことは、周囲に言い続ける ●仕事づくりは人脈づくりから ●目標が定まったらとことんリサーチ ●壁には多方面からアプローチ ●尊敬できる身近な人物の言動を大いに参考にする ●依頼者からの相談ごとにはすぐ仕事に結び付かなくても親身に対応策を |
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