「人」と地域を横断し社会に地殻変動をしかける!
- 2020/04/26
- 21:32
なりわいのかたち
人と地域を横断し、社会に地殻変動をしかける!
影山貴大(J-doc company .LLC 代表社員
/非営利活動団体中間支援/メディエーター)

【なりわいのすじみち】
父親が芸術家で母親は起業家スピリットを持ち合わせた自立した女性。そんな両親の間に生まれ、子どものころから自分なりの意思を持ち、小学校のときは生徒会長をつとめるなど楽しいこと、やりたいことを何でもチャレンジする子どもだった。肺炎で入院し注射をしようとした医者にも「注射は嫌だ」と自己主張。すると「じゃあ駐車はやめよう」と。赤ひげ先生といった風貌のその先生を「かっこいい!」と思えた。自分も大人になったらそんな、「かっこいい」医者になる、と心に決めた。
モットー
人がつながると「何か」が起きる!

http://nariwaijob.com
人と地域を横断し、社会に地殻変動をしかける!
影山貴大(J-doc company .LLC 代表社員
/非営利活動団体中間支援/メディエーター)

【なりわいのすじみち】
父親が芸術家で母親は起業家スピリットを持ち合わせた自立した女性。そんな両親の間に生まれ、子どものころから自分なりの意思を持ち、小学校のときは生徒会長をつとめるなど楽しいこと、やりたいことを何でもチャレンジする子どもだった。肺炎で入院し注射をしようとした医者にも「注射は嫌だ」と自己主張。すると「じゃあ駐車はやめよう」と。赤ひげ先生といった風貌のその先生を「かっこいい!」と思えた。自分も大人になったらそんな、「かっこいい」医者になる、と心に決めた。
モットー
人がつながると「何か」が起きる!
憧れの医者になりたいとの夢から、中学受験をはじめ勉強はがんばった。といってもがり勉君ではなく、クラスではだれとでも仲良くなれる天真爛漫なリベラル派。将来は入院したときに出会った「かっこいい」大人である医師にあこがれ、自分も医者になると決めた。思春期になるにつれ「医者」は、単に社会的ステイタスの高い職業という捉え方に変わっていく。「かっこいい大人になりたい自分」の軸足が見えない。留学、東日本大震災時のボランティア活動を通し次第に自分の行くべき方向性が見えてきた。 |
●かっこいい大人の原点
とにかく「かっこいい」おとなになりたった。最初の「かっこいい」おとなは大工。父親が、画家であり何かを作りだす大人のかっこよさを身近に感じていたからかもしれない。
「かっこいい」大人の決定打は、小学生のとき肺炎にかかって入院したときの先生だ。注射は嫌だ!と主張したら、あっさり「じゃあやめよう」、とその熊五郎といった風貌の先生は言った。注射はおそらく寝ている間にしてくれたのだろうが、大人のゴリ押しもせず、かといってちゃんとすべき仕事はさくっと行う。一連の流れがスマートだった。かっこよさにしびれた。ぼくも医者になる、と決心した。
●アイデンティティと「世間の視線」のはざまで
両親は、とくに教育熱心ではないが子どものそんな目標を応援してくれた。進学塾通いをさせてもらい、中学受験をめざす。しかし第一志望の学校には進学できず地元の公立中学へ。
中学生になっても医者になるという夢はかわらなかった。学費の安い国立大学を狙うため、受験進学に熱心な私立高校をめざして猛勉強した。集中力を養うのによいと聞けば、弓道部にも入部した。先生のなかには授業中、問題集を開いていてもがんばれよ、と応援してくれる先生もいた。
そんな周囲の応援とは裏腹に、勉強に対する意欲は以前と比べてすくなくなった。中学受験に向けてがんばり続けたから、息切れしたのかもしれない。当初「中学受験の貯金」で成績は保ったが、それまでの、明るく誰にも好かれ、運動も勉強もできる、自他ともに認めていた「寵児」ぶりはなりを潜めた。高校受験のために通い始めた塾もさぼりがちになった。アイデンテティの確立と回りが求める像のはざまに揺れた。
そんな状態で高校は中学受験で失敗した難易度の高い私学の推薦入学を目指したものの、同じ学校から野球部で活躍する志望者が合格を勝ち取り、一人不合格に。
「なぜ自分だけが」とは不思議と思わなかった。合格した彼らとは仲が良かったし、彼らのほうが成績もよかった。彼ら二人は野球部で活躍しており、その年、志望校が野球部強化に向けて求めていた人材としてもぴったりだった。
●バンド部で燃える!
第二志望の高校に進学し特進クラスに入った。まわりは東大を目指すような生徒ばかり。そんな彼らをどこか冷めた目で眺め、かといって勉強以外の活動に力を入れるような情熱も沸いてこなかった。
唯一打ち込めたのが、バンド活動だ。生徒会活動も、先生の指導のもと行われるような環境にあり、生徒の裁量に任される数少ない活動の一つだった。特進クラスの東大志望者もこのときは、「青春」を謳歌する。
バンドは、新年度にメンバーを募り文化祭に向けて練習していく。影山さんは1年生のときに参加し、中心メンバーとなって3年まで活動した。上の学年にメンバーがいなかったため、2年次には部長に就任した。
新入生勧誘イベントでは、舞台上から熱烈アピール。文化祭の活躍と、そのパフォーマンスに魅了されたのか、入部希望者を制限するほと、部員が増加した。
年を追うごとに文化祭での発表は評判を呼ぶようになり、バンドは学内中の話題になった。
高校3年間の学校生活はバンドで彩られた。
一方、大学受験のほうは、勉強に集中できず、一浪した。浪人中も、受験勉強への意欲はいまいちだった。1浪後の入学試験のときは、試験のときに手が震えた。それまでなかったことだった。よい結果は得られなかった。
将来へのモチベーションそのものがわかなくなった。
●アメリカへ
2浪するか、それとも?…決めかねているときに、母親が言った。「アメリカの大学はどう?」
瞬間、目の前がぱあっと開けた。苦手な英語にあえてチャレンジすること、まったく異なる環境に飛び込み暮らすこと。持ち前のチャレンジ精神と好奇心に「スイッチ」が入る。いま自分に必要なのは、これだ!
一度スイッチが入れば行動は早い。アメリカ留学の方法を調べてみるとヒューマン国際大学機構という専門学校があるのを知った。英語を学べて、少しだけアメリカの大学の単位にもなる勉強ができるという。
はりきって勉強を始めた。キラキラしたものに向かって進んでいる自分が、誇らしい。
●「できる自分」がなんだ!
自ら調べて選び出した留学準備機関に通い、留学に向けた学びに取り組んでいるさなか、父親が家を出た。家庭内が落ちつかなくなり「片親になるかもしれない」という危うさを感じた。アメリカ留学に対する意欲がしぼみ、自室にひきこもった。ただひたすら自己を見つめる日々。
とはいえ、もともとアクティブなたちだ。なにかがプツンと切れ吹っ切れた。
「一週間もすると、飽きてきたんです(笑)」。
学校の成績で上位の自分、友達が多くクラスで人気者の自分、プレゼンがそこそこできて、後輩から慕われる自分、進学校に進み、有名大学を目指していた自分。そうしたことへの価値も、プライドも失せていた。
「別に『王道』を走らなくてもいいじゃん」
片親になって進学が経済的に無理なら、働けばいい。働いて学費を稼ぎ、その後で大学を目指せばいい。それを、母親に告げた。
すると、思わぬ言葉が返ってきた。
「行きなさい、大丈夫。お父さんも必ず戻ってくる。あんたは今、やれることを一生懸命やればいい、お金のことも、ぜんぜん気にしなくていいから」
思えば一週間引きこもったときは、母親はいっさい動揺もみせず、食事どきの声かけなどをふだんどおりにしてくれた。「いまから思えば、かなり腹のすわった母親なのだと思います」
専門学校での学びへのモチベーションを取り戻し、アメリカでの学費稼ぎのためにアルバイトを7つ掛け持ちした。新たな世界への希望に満ちた毎日を送ったのち、アメリカへ飛び立った。
●アメリカでの学びと3.11
アメリカでは大学の医学部への編入を視野に入れ、セントラルフロリダコミュニティカレッジの、医学部進学コースで学んだ。英語での授業は大変だったが、優秀な成績を保った。持ち前のバイタリティと順応性の高さで友達も増え、充実したキャンパスライフを送る。
フロリダでの学生生活を謳歌していた2011年3月11日、東日本大震災発生。
何かできることを…そう思い立ち、一緒に学ぶ仲間たちと、衣料品などを集め日本に送ることにした。すると、日頃ボランティアなど関心なさそうな、自分とは相容れない「すかした」感じに見えた学生がいちはやく手伝いにきてくれた。
「自分は彼らのどこを見て分かった気になっていたのだろう」。
心のなかの何かが、すとんとそぎ落とされた。既存の価値観への衝撃だった。それまで自分は、見かけだけで人を判断していたかもしれない。母親はどんな思いで自分をアメリカに送り出したのだろう。友達は、父は…。
人と、本当に意味で向き合うことがどんなに大切で価値あることかを痛感した。
そして、子どものころ憧れた医者がなぜかっこいいと思えたか、その理由がわかった。
「子どもである自分と、対等に向き合ってくれたから」。
●肩書きのいらない場所を
アクションを起こし、ともに活動すると、相手の人となりがわかり、フラットな人間関係が築けることも、ボランティア活動を通して知った。
肩書きなど気にせず、普段出会わない人たちと出会える場「ボランティア」のフィールドを、自分自身の手で作っていこう。日本に戻り1年間、ボランティア活動をすることを決めた。
卒業までに2年間かかるコミュニティカレッジは、1年半で卒業した。当初の目標である医学部への入学は目の前だ。そのタイミングで、1年間日本で過ごすことを母親は、どう思うだろう。
意を決して母親にその意志を伝ると、「あんたが今必要だと思うことをやりなさい」。
自分は親に信頼されている。そのことが無性にうれしかった。実感できたのは、アメリカのボランティア活動での気づきがあったからかもしれない。
日本に帰国してからは、まずは市民活動サポートセンターを訪問した。登録団体は500ほどあるという。そこで、すでにある団体をお手伝いするボランティア団体を作ることにした。
就職先が決まって、比較的時間を自由に使える中学時代の同級生を活動に巻き込んだ。
NPOのフェスティバルで団体ブースのガイドツアーを企画したところ、参加者はわずかだったが市内のさまざまな活動をする団体や人とつながることができた。つながることの楽しさ、面白さを味わった。
すると、その動きを見ていたサポートセンターから声をかけられNPO活動のコーディネーターの手伝いのアルバイトをすることになった。
センターでは、「つながる」チャネルの多様性や「つながる」ことの可能性の広がりを知ることになった。講座と人、講師と人、参加者同士。場をつくると、つながりが生まれ、何かを生み出す起爆剤になる。見よう見まねで、メールや打ち合わせ時の資料づくり、企画書の作成などビジネススキルも身についた。アメリカで、自ら能動的に学ぶ姿勢を身につけた経験が生きた。
●社会課題解決をビジネスに
センターが企画したある講座で「社会課題解決」はソーシャルビジネスとして仕事になる、という考え方を知った。
それなら、自分も会社を起こし、仕事として社会課題解決に取り組んでいこう!
そこで、アメリカからの帰国後1年間のアルバイトを経て、中学時代の同級生やボランティア活動の仲間とともに6人体制の「合同会社」を起こした。
初めて手がけたのは街バル。参画店舗を集めたり、街バルの参加者を募ったり。文字通り目が回るほど忙しかった。結果、終始はトントン。
会社に加わった仲間にはあらかじめ「1年間は給料は払えないかも」と伝えてあった。しかしメンバーからは不満が爆発する。心理面で大きな負担を負ってしまったメンバーもいた。
たった半年で、会社は休止せざるを得ない状況に陥った。皮肉にも、ゴタゴタの最中、申し込んでいた200万円の融資がおりた。それらはすべてメンバーたちへの給料の支払いに当て、200万円の借金が残った。
わずか半年で再びスタート地点に立った。一方で、この道で自分はやっていく、という覚悟のようなものも生まれつつあった。アメリカに戻ろうとは、考えなかった。
●メディエーターという職業
会社立ち上げから激動の半年が過ぎたころ、年が明け、さあ何をしようかと考えていたちょうどそのタイミングで、以前関わりのあったNPO支援センターの職員が千葉の3つの自治体のNPO活動のコーディネーター職の話を持ってきた。「3件ともやります!」迷わず答えていた。
講座企画、センター運営の補助、非営利団体の中間支援、行政へのアドバイス。コーディネーターとしての仕事を貪欲に経験していった。
講師として初めて行なった講座は「コーディネータ養成講座」だ。そのなかで、コーディネーターとして社会課題解決に関わる仕事をしていくのに必要なのは「スキルでもビジョンでもなく覚悟」という話をした。それに強く反応してくれた受講生はその後、自ら中間支援組織を立ち上げた。
講座の企画・運営を通し、講師とのつながりや、県外の活動状況を知る機会が増えぐんと視野が広がった。やがて、自分以外の「コーディネーター」がどんな活動をしているかもわかってきた。すると、自分が彼らとは正反対の方法で支援していることに気づく。
彼らは、ステークフォルダと課題を明確にしたうえで、連携先を絞り込み、事業計画を策定して目標達成に向け計画的に動いていくことをすすめる。
影山さんの場合は、まずは活動そのものを、肯定的におもしろがる。連携先はその団体に任せる。
やっている本人がちがワクワクでき、たとえ異分野であっても気の合う人や団体があればつながればいい。そこから何か新しい課題に向かうエネルギーが湧き解決に向けた実践につながるかもしれない、と考えるのだ。活動者の思いや「つながり」がいちばんにあり、コーディネーターは伴走者という位置付けだ。
そんな姿勢を、仕事で知り合った大学の教授が「協調的課題解決という方法に近い」と言った。協調的課題解決とは、ゆるやかなつながりが化学反応をうみ、イノベーションにつながる、という社会課題解決のアプローチ方法だ。影山さんのような存在は、コーディネーターの枠を超えた「メディエーター」だという。
メディエーターの役割は、違和感をものともせず、壁を越境し、媒介し続けること。そして、つながることはこんなに面白い、という社会の空気を醸成することがメディエーターのミッションだと理解した。
貧困や就職差別の解消、環境問題解決、高齢化社会、少子化問題といった社会課題を解決し、よりよい暮らしを…といった悲壮感ただよう「問題意識」とは少し違う。
課題意識を持つ人たちがゆるやかに連帯しながらさまざまな視点を融合させ、横断的、底上げ的に社会にアプローチするために必要な存在だと捉えている。
●行政にも寄り添いながら
「ゆるやかにつながることが大切」という姿勢は行政に対しても同じだ。
なりわいとしては、NPO活動支援センターの管理業者の本社との直接契約が生まれたり、行政の戦略立案の策定委員として声がかかったり、といった手応えある動きも出てきた。
とくに行政からは、「寄り添い」「伴走する」という姿勢が歓迎され、信頼につながっている。
健康増進、自殺防止、生涯学習といったテーマも、つながりをつくり協働することを大切にしながら取り組む考え方が受け入れられている。
自身のありようを模索するなかで経験した学び、活動、事業、挫折、そしてプライドを手放す経験など、これまでの全てがあって、今の自分がある。そんな自分が確信をもって取り組んでいる中間支援のありようが、明確なポジションをなし確固たる価値として認められるようになったことが何よりうれしい。
「この、分断が進んだ日本のなかでまだまだやれることがたくさんある。これからが楽しみです」
●今の場所から次のステージをめざす全ての人へ
自我の確立よりも先に、他の人のいうことに耳を傾けてみてはどうだろう。
自分の価値観を絶対的に信じすぎないほうがいい。
自身の軸だけを基準に良し悪しを決めつけず、いろいろな人の話をフラットに聞ける姿勢を身につけよう。自分の考えと違うと感じても、すぐにはシャッターを下ろさず、いったん受けとめ、味わってみよう。
そうやって自身の価値観を扱うすべを身につけよう。
すると、さらに選択肢が広がる。そして、世界がさらに大きく見えるはずだ。
影山さんのお仕事4か条
●心が動いたことをまずはやってみる
●「世間の評価」はいったん脇におく
●能動的な実践が経験値を蓄積させる
●つながりと化学反応がイノベーションを起こす
影山貴大Facebook ページ
https://www.facebook.com/kageyama.takahiro
とにかく「かっこいい」おとなになりたった。最初の「かっこいい」おとなは大工。父親が、画家であり何かを作りだす大人のかっこよさを身近に感じていたからかもしれない。
「かっこいい」大人の決定打は、小学生のとき肺炎にかかって入院したときの先生だ。注射は嫌だ!と主張したら、あっさり「じゃあやめよう」、とその熊五郎といった風貌の先生は言った。注射はおそらく寝ている間にしてくれたのだろうが、大人のゴリ押しもせず、かといってちゃんとすべき仕事はさくっと行う。一連の流れがスマートだった。かっこよさにしびれた。ぼくも医者になる、と決心した。
●アイデンティティと「世間の視線」のはざまで
両親は、とくに教育熱心ではないが子どものそんな目標を応援してくれた。進学塾通いをさせてもらい、中学受験をめざす。しかし第一志望の学校には進学できず地元の公立中学へ。
中学生になっても医者になるという夢はかわらなかった。学費の安い国立大学を狙うため、受験進学に熱心な私立高校をめざして猛勉強した。集中力を養うのによいと聞けば、弓道部にも入部した。先生のなかには授業中、問題集を開いていてもがんばれよ、と応援してくれる先生もいた。
そんな周囲の応援とは裏腹に、勉強に対する意欲は以前と比べてすくなくなった。中学受験に向けてがんばり続けたから、息切れしたのかもしれない。当初「中学受験の貯金」で成績は保ったが、それまでの、明るく誰にも好かれ、運動も勉強もできる、自他ともに認めていた「寵児」ぶりはなりを潜めた。高校受験のために通い始めた塾もさぼりがちになった。アイデンテティの確立と回りが求める像のはざまに揺れた。
そんな状態で高校は中学受験で失敗した難易度の高い私学の推薦入学を目指したものの、同じ学校から野球部で活躍する志望者が合格を勝ち取り、一人不合格に。
「なぜ自分だけが」とは不思議と思わなかった。合格した彼らとは仲が良かったし、彼らのほうが成績もよかった。彼ら二人は野球部で活躍しており、その年、志望校が野球部強化に向けて求めていた人材としてもぴったりだった。
●バンド部で燃える!
第二志望の高校に進学し特進クラスに入った。まわりは東大を目指すような生徒ばかり。そんな彼らをどこか冷めた目で眺め、かといって勉強以外の活動に力を入れるような情熱も沸いてこなかった。
唯一打ち込めたのが、バンド活動だ。生徒会活動も、先生の指導のもと行われるような環境にあり、生徒の裁量に任される数少ない活動の一つだった。特進クラスの東大志望者もこのときは、「青春」を謳歌する。
バンドは、新年度にメンバーを募り文化祭に向けて練習していく。影山さんは1年生のときに参加し、中心メンバーとなって3年まで活動した。上の学年にメンバーがいなかったため、2年次には部長に就任した。
新入生勧誘イベントでは、舞台上から熱烈アピール。文化祭の活躍と、そのパフォーマンスに魅了されたのか、入部希望者を制限するほと、部員が増加した。
年を追うごとに文化祭での発表は評判を呼ぶようになり、バンドは学内中の話題になった。
高校3年間の学校生活はバンドで彩られた。
一方、大学受験のほうは、勉強に集中できず、一浪した。浪人中も、受験勉強への意欲はいまいちだった。1浪後の入学試験のときは、試験のときに手が震えた。それまでなかったことだった。よい結果は得られなかった。
将来へのモチベーションそのものがわかなくなった。
●アメリカへ
2浪するか、それとも?…決めかねているときに、母親が言った。「アメリカの大学はどう?」
瞬間、目の前がぱあっと開けた。苦手な英語にあえてチャレンジすること、まったく異なる環境に飛び込み暮らすこと。持ち前のチャレンジ精神と好奇心に「スイッチ」が入る。いま自分に必要なのは、これだ!
一度スイッチが入れば行動は早い。アメリカ留学の方法を調べてみるとヒューマン国際大学機構という専門学校があるのを知った。英語を学べて、少しだけアメリカの大学の単位にもなる勉強ができるという。
はりきって勉強を始めた。キラキラしたものに向かって進んでいる自分が、誇らしい。
●「できる自分」がなんだ!
自ら調べて選び出した留学準備機関に通い、留学に向けた学びに取り組んでいるさなか、父親が家を出た。家庭内が落ちつかなくなり「片親になるかもしれない」という危うさを感じた。アメリカ留学に対する意欲がしぼみ、自室にひきこもった。ただひたすら自己を見つめる日々。
とはいえ、もともとアクティブなたちだ。なにかがプツンと切れ吹っ切れた。
「一週間もすると、飽きてきたんです(笑)」。
学校の成績で上位の自分、友達が多くクラスで人気者の自分、プレゼンがそこそこできて、後輩から慕われる自分、進学校に進み、有名大学を目指していた自分。そうしたことへの価値も、プライドも失せていた。
「別に『王道』を走らなくてもいいじゃん」
片親になって進学が経済的に無理なら、働けばいい。働いて学費を稼ぎ、その後で大学を目指せばいい。それを、母親に告げた。
すると、思わぬ言葉が返ってきた。
「行きなさい、大丈夫。お父さんも必ず戻ってくる。あんたは今、やれることを一生懸命やればいい、お金のことも、ぜんぜん気にしなくていいから」
思えば一週間引きこもったときは、母親はいっさい動揺もみせず、食事どきの声かけなどをふだんどおりにしてくれた。「いまから思えば、かなり腹のすわった母親なのだと思います」
専門学校での学びへのモチベーションを取り戻し、アメリカでの学費稼ぎのためにアルバイトを7つ掛け持ちした。新たな世界への希望に満ちた毎日を送ったのち、アメリカへ飛び立った。
●アメリカでの学びと3.11
アメリカでは大学の医学部への編入を視野に入れ、セントラルフロリダコミュニティカレッジの、医学部進学コースで学んだ。英語での授業は大変だったが、優秀な成績を保った。持ち前のバイタリティと順応性の高さで友達も増え、充実したキャンパスライフを送る。
フロリダでの学生生活を謳歌していた2011年3月11日、東日本大震災発生。

何かできることを…そう思い立ち、一緒に学ぶ仲間たちと、衣料品などを集め日本に送ることにした。すると、日頃ボランティアなど関心なさそうな、自分とは相容れない「すかした」感じに見えた学生がいちはやく手伝いにきてくれた。
「自分は彼らのどこを見て分かった気になっていたのだろう」。
心のなかの何かが、すとんとそぎ落とされた。既存の価値観への衝撃だった。それまで自分は、見かけだけで人を判断していたかもしれない。母親はどんな思いで自分をアメリカに送り出したのだろう。友達は、父は…。
人と、本当に意味で向き合うことがどんなに大切で価値あることかを痛感した。
そして、子どものころ憧れた医者がなぜかっこいいと思えたか、その理由がわかった。
「子どもである自分と、対等に向き合ってくれたから」。
●肩書きのいらない場所を
アクションを起こし、ともに活動すると、相手の人となりがわかり、フラットな人間関係が築けることも、ボランティア活動を通して知った。
肩書きなど気にせず、普段出会わない人たちと出会える場「ボランティア」のフィールドを、自分自身の手で作っていこう。日本に戻り1年間、ボランティア活動をすることを決めた。
卒業までに2年間かかるコミュニティカレッジは、1年半で卒業した。当初の目標である医学部への入学は目の前だ。そのタイミングで、1年間日本で過ごすことを母親は、どう思うだろう。
意を決して母親にその意志を伝ると、「あんたが今必要だと思うことをやりなさい」。
自分は親に信頼されている。そのことが無性にうれしかった。実感できたのは、アメリカのボランティア活動での気づきがあったからかもしれない。
日本に帰国してからは、まずは市民活動サポートセンターを訪問した。登録団体は500ほどあるという。そこで、すでにある団体をお手伝いするボランティア団体を作ることにした。
就職先が決まって、比較的時間を自由に使える中学時代の同級生を活動に巻き込んだ。
NPOのフェスティバルで団体ブースのガイドツアーを企画したところ、参加者はわずかだったが市内のさまざまな活動をする団体や人とつながることができた。つながることの楽しさ、面白さを味わった。
すると、その動きを見ていたサポートセンターから声をかけられNPO活動のコーディネーターの手伝いのアルバイトをすることになった。

センターでは、「つながる」チャネルの多様性や「つながる」ことの可能性の広がりを知ることになった。講座と人、講師と人、参加者同士。場をつくると、つながりが生まれ、何かを生み出す起爆剤になる。見よう見まねで、メールや打ち合わせ時の資料づくり、企画書の作成などビジネススキルも身についた。アメリカで、自ら能動的に学ぶ姿勢を身につけた経験が生きた。
●社会課題解決をビジネスに
センターが企画したある講座で「社会課題解決」はソーシャルビジネスとして仕事になる、という考え方を知った。
それなら、自分も会社を起こし、仕事として社会課題解決に取り組んでいこう!
そこで、アメリカからの帰国後1年間のアルバイトを経て、中学時代の同級生やボランティア活動の仲間とともに6人体制の「合同会社」を起こした。
初めて手がけたのは街バル。参画店舗を集めたり、街バルの参加者を募ったり。文字通り目が回るほど忙しかった。結果、終始はトントン。
会社に加わった仲間にはあらかじめ「1年間は給料は払えないかも」と伝えてあった。しかしメンバーからは不満が爆発する。心理面で大きな負担を負ってしまったメンバーもいた。
たった半年で、会社は休止せざるを得ない状況に陥った。皮肉にも、ゴタゴタの最中、申し込んでいた200万円の融資がおりた。それらはすべてメンバーたちへの給料の支払いに当て、200万円の借金が残った。
わずか半年で再びスタート地点に立った。一方で、この道で自分はやっていく、という覚悟のようなものも生まれつつあった。アメリカに戻ろうとは、考えなかった。
●メディエーターという職業
会社立ち上げから激動の半年が過ぎたころ、年が明け、さあ何をしようかと考えていたちょうどそのタイミングで、以前関わりのあったNPO支援センターの職員が千葉の3つの自治体のNPO活動のコーディネーター職の話を持ってきた。「3件ともやります!」迷わず答えていた。
講座企画、センター運営の補助、非営利団体の中間支援、行政へのアドバイス。コーディネーターとしての仕事を貪欲に経験していった。
講師として初めて行なった講座は「コーディネータ養成講座」だ。そのなかで、コーディネーターとして社会課題解決に関わる仕事をしていくのに必要なのは「スキルでもビジョンでもなく覚悟」という話をした。それに強く反応してくれた受講生はその後、自ら中間支援組織を立ち上げた。
講座の企画・運営を通し、講師とのつながりや、県外の活動状況を知る機会が増えぐんと視野が広がった。やがて、自分以外の「コーディネーター」がどんな活動をしているかもわかってきた。すると、自分が彼らとは正反対の方法で支援していることに気づく。
彼らは、ステークフォルダと課題を明確にしたうえで、連携先を絞り込み、事業計画を策定して目標達成に向け計画的に動いていくことをすすめる。
影山さんの場合は、まずは活動そのものを、肯定的におもしろがる。連携先はその団体に任せる。
やっている本人がちがワクワクでき、たとえ異分野であっても気の合う人や団体があればつながればいい。そこから何か新しい課題に向かうエネルギーが湧き解決に向けた実践につながるかもしれない、と考えるのだ。活動者の思いや「つながり」がいちばんにあり、コーディネーターは伴走者という位置付けだ。
そんな姿勢を、仕事で知り合った大学の教授が「協調的課題解決という方法に近い」と言った。協調的課題解決とは、ゆるやかなつながりが化学反応をうみ、イノベーションにつながる、という社会課題解決のアプローチ方法だ。影山さんのような存在は、コーディネーターの枠を超えた「メディエーター」だという。
メディエーターの役割は、違和感をものともせず、壁を越境し、媒介し続けること。そして、つながることはこんなに面白い、という社会の空気を醸成することがメディエーターのミッションだと理解した。
貧困や就職差別の解消、環境問題解決、高齢化社会、少子化問題といった社会課題を解決し、よりよい暮らしを…といった悲壮感ただよう「問題意識」とは少し違う。
課題意識を持つ人たちがゆるやかに連帯しながらさまざまな視点を融合させ、横断的、底上げ的に社会にアプローチするために必要な存在だと捉えている。
●行政にも寄り添いながら
「ゆるやかにつながることが大切」という姿勢は行政に対しても同じだ。
なりわいとしては、NPO活動支援センターの管理業者の本社との直接契約が生まれたり、行政の戦略立案の策定委員として声がかかったり、といった手応えある動きも出てきた。
とくに行政からは、「寄り添い」「伴走する」という姿勢が歓迎され、信頼につながっている。
健康増進、自殺防止、生涯学習といったテーマも、つながりをつくり協働することを大切にしながら取り組む考え方が受け入れられている。
自身のありようを模索するなかで経験した学び、活動、事業、挫折、そしてプライドを手放す経験など、これまでの全てがあって、今の自分がある。そんな自分が確信をもって取り組んでいる中間支援のありようが、明確なポジションをなし確固たる価値として認められるようになったことが何よりうれしい。

●今の場所から次のステージをめざす全ての人へ
自我の確立よりも先に、他の人のいうことに耳を傾けてみてはどうだろう。
自分の価値観を絶対的に信じすぎないほうがいい。
自身の軸だけを基準に良し悪しを決めつけず、いろいろな人の話をフラットに聞ける姿勢を身につけよう。自分の考えと違うと感じても、すぐにはシャッターを下ろさず、いったん受けとめ、味わってみよう。
そうやって自身の価値観を扱うすべを身につけよう。
すると、さらに選択肢が広がる。そして、世界がさらに大きく見えるはずだ。
影山さんのお仕事4か条
●心が動いたことをまずはやってみる
●「世間の評価」はいったん脇におく
●能動的な実践が経験値を蓄積させる
●つながりと化学反応がイノベーションを起こす
影山貴大Facebook ページ
https://www.facebook.com/kageyama.takahiro