「命を立てる」生き方につながる 教育を
- 2021/05/23
- 14:09
なりわいのかたち<教育・コンサルタント>
知識や技能を、必要とする方に分かり易いかたちで教え、
その人たちの仕事や生活に役立ててもらう。
それが教育やコンサルティングと言えます。
また、その人本来の良さや、ちからを引き出すのも教育です。
仕事の内容は、決して一方的に「教える」ことにとどまりません。
教えた相手からも、報酬以外で必ず何らかのフィードバックがあり、
互いに学び合い成 長し合えるものです。
教育やコンサルティングは提供する側とされる側だけのものではなく人、人と人の関係、システム、コミュニティそのもののさらなる発展 につながる仕事だと言えます。
関連サイト http://nariwaijob.com

判断力、想像力を引き出し
書ける子、自ら学ぶ子を育成する
真野玲子さん
(あおぞら作文教室講師/株式会社 立命 代表取締役)
【モットー】
「命が立つ」生き方を全力で実践
【なりわいのすじみち】
父親はスポーツ、とりわけ大の野球好きで、家にはつねにスポーツ新聞があった。子どものころは、野球中継があると好きな番組が見れなかったが、やがて好きになっていった。それは父との唯一の接点でもあった。浪人時代に通った予備校の授業では、みっちりと小論文の書き方を学んだ。2年目にのぞんだ大学受験はもともと得意だった作文力を生かし英国小論文で受験できる大学を選びそのなかで、早稲田大学に進学。卒業後は、所属していたゴルフ部のOBの縁もあり、野球雑誌の出版社に採用された。
●「田舎の女子高生」が受けた衝撃
静岡の、女子のみの進学校に通っていた。東京の大学に行きたくて受験にのぞんだものの一年目は思うような結果にならず、浪人することを決めた。母は地元の大学への進学を望んだ。一方、父は「行くなら東京の大学を目指せ」。父の言葉をうれしく受け止め、予備校の指定校推薦を受け上京。女子寮に住まいながら予備校に通うこととなった。
予備校の授業は、田舎の女子校出身者にとって衝撃的だった。効率的でわかりやすく、なにより受験に特化した内容。
講師も若く、魅力的だった。通っていた女子校は進学校ではあったものの、高齢の教師も多く教えかたはのんびりした雰囲気だったから大違いだった。がぜん張り切りだした。
当初は、比較的成績のよかった数学を含めた受験科目を考えていた。ほどなく東京のトップ校の卒業生たちには太刀打ちできないことがわかった。そこで志望校は英・国と小論文で受験できる大学に絞った。
予備校でとくに力を入れたのは小論文の授業だ。もともと書くことは好きだった。予備校の同級生たちと勉強会を開き、A評価をもらいたい一心で勉強し、腕をあげていった。
ひたすら勉強づけの日々を過ごしたのち、2年目にはみごと二つの大学に合格。考えたあげく早稲田大学に進学した。
●ゴルフ部とスポーツ雑誌
大学に進学すると体育会系ゴルフ部に入部した。高校でソフトボール部にいた真野さんは当時ショートカットで筋肉もりもり。体育の授業でゴルフがあり、豪快にカーンと飛ばしていたのに目をつけたゴルフ部の監督に「スカウト」されたのだ。
ほんとうはゴルフサークルに入りたかったが女子はいかにも女子大生の雰囲気のメンバーばかり。自分の居場所ではないと判断した。ただ、ゴルフ部に入ったことは、就職活動で功を奏した。志望先としてめざしていたのは、スポーツ雑誌を出版する出版社。スポーツ紙ではなく、スポーツ誌づくりに関わりたかった理由は、ひとつのネタをじっくり掘り下げて取り上げることに魅力があると感じていたからだ。
なんと、その会社の社長が、早大ゴルフ部出身だった。学生連盟の理事長でもありあるとき会合で話をする機会があった。卒業後はどこを目指しているのかを聞かれ、いさんで「御社です!」と答えた。
そんなご縁がつながり、卒業後は、志望通りの出版社に採用がかなったのだった。
●週刊誌編集者時代に学んだこと
配属されたのは、野球メディアの編集部。編集者は特定の球団の担当となり、あらゆるネタを取り上げることになる。編集者がすべての取材を担うのはとうてい無理なので、取材と記事づくりはスポーツ紙の記者に原稿料を支払って依頼した。
携帯電話がない時代。ホテルや球場に電話をかけて記者を呼び出すしかない。ところが、なかなかつかまらない。つかまっても多忙な記者に、締め切りまでに記事を書いてもらうのは、至難のわざだった。
「編集部はいつも怒号が飛び交ってましたね(笑)」。
とはいえ、記者とは、会えば「どうもー」と和やかに会話をかわし、なんども飲みに行った。話が盛り上がり午前様になることもしょっちゅう。
仕事は楽しくてたまらなかった。帰宅も惜しんで働いた。そんな仕事ぶりが成果としても認められ、社内表彰もされた。
「思い」がこもる文章が、読み手を感動させることに気づいたのもこの時期だ。
入社2、3年目、甲子園への出場が決まった東北の甲子園取材の現地担当をすることになった。ぜひともやりたかった仕事。うれしかった。
ところが急遽、出場高校出身の記者が担当することになってしまった。
先輩とはいえ、自分より原稿が決してうまいとは思えないその先輩に「横取り」されたように感じ悔しかった。
でも、試合後の原稿を受け取った真野さんは、電話で「直すところは一つもありません」と伝えていた。
「その先輩、最高の原稿を書いてきたんです」。
先輩の他の原稿が本当にうまかったかどうかはわからない。
ただ鮮やかに、甲子園のシーンが目の前に広がるような原稿だった。ほんとうにいい原稿はひとを感動させる。そのことを実感する経験だった。
無我夢中で走りつづけて4年半経ったとき、結婚の機会が訪れた。12歳年上で、記者として、社会人として大先輩の同僚だった。知識が豊富で、生意気ざかりの自分を叱ってくれるのも心地よかった。
結婚を機に、出版社を退職した。
●子どもたちは遊びのなかから学ぶ
結婚後、興味のあったカラーコーディネーターの勉強を始めたところ、2級資格をとったのちに妊娠。子育てと家事の毎日を送ることになった。

長女が小学生になり、宿題の作文を教えるようになった。とはいえ、自分の子どもだけに、できないと叱り、なぜこんな簡単なことができないの?などと指示的な口調で言ってしまう。
とくに衝動的で注意力散漫な長男には手を焼き、叱責することが多かった。そのせいか長男はいっときは「国語嫌い」になったという。
「今思えばダメ親だったんです、わたし」。
子育てに悩んでいたころ、足立区が協働をめざして公園で緒に遊び見守り活動をする「パークエンジェル」という団体を作るための講座が開かれることを知り、参加し始めた。
活動をともにするうち、「学び」は遊びのなかから生まれる、ということに気づいた。子どもにはそれぞれ特性があること、個性が強く出る子どもは医学用語でいう発達障がいの可能性があることも知った。自身の子どもや、自分自身の特性を思い浮かべると、当てはまるかもしれない、と、初めて自分自身や子どものありようを客観視する機会も得た。
長男が小学3年生になるころ、もっと学校のことを知りたい、と考えるようになった。足立区のホームページで小学校の介助員という仕事を知った。応募したところ採用され働き始めた。
仕事は身体障害を持つ子どもが授業を受けるときに、そばについてサポートするというものだった。結婚前に訪問ヘルパーの資格取得のために学んだことも生かされた。
介助の対象は脳性麻痺の子どもたちなど。字がかける子もいれば、名前さえ書くのが難しい子もいた。授業中はそんな子どもたちの手元をコントロールしてあげながらなんとなく、本人が書いているようにサポートした。
介助員として学校にしばしば出入りするうちに小学校の様子が徐々にわかってきた。子どもたちは本当に忙しい。通常通りの授業をこなしながら、行事があれば20分の休み時間にまで行事の練習をすることもある。
国語の時間の、文章を書く授業も、じっくり思考しアウトプットするという丁寧な流れをつくるのはとうてい無理そうだった。
先生が簡単な課題を伝え10分、15分ほどで書くように指示する。その間、先生はやることが満載だ。トラブルがあれば対応しなければならない。せっかく優秀な先生がそろっているのに、その力が十分発揮できていないと感じた。
同時に、長男が書けないのも当然だ、と思えるようになった。
そんな現状や自宅で子どもたちに教えようにもなかなかうまくいかないことをママ友に伝えたところ、「うちの子も一緒に教えてくれない?」と提案された。
早速、自宅近くで場所を借り、最初は4人ほどの子どもたちを相手に、作文教室を始めた。最初は月謝などは取らず、場所代を折半した。
●命を立つ
そんなスタイルの作文教室はしばらく続き、徐々に生徒も増えてきた。作文教室は、次第に自身のライフワークともいえるものになっていった。

振り返ってみれば、それまでなんとなくうまく行った。大学卒業後は希望の職業につけた。結婚をして三人の子どもに恵まれた。子どもとの公園遊び活動、学校介助員では子どもの「育ち」に関わる知識と経験を得た。さかのぼれば「書くことが好き」だった子どものころ、小論文を受験科目として夢中になって学んだこと。これらすべてがつながり「子どもに作文を教える」ことがふっと湧いてきて、教室を開くことにつながった。
だが「わたしは本気になって子どもたちの学びや育ちに取り組んでいるだろうか、命を立てる生き方をしているだろうか、いやまだだ」と自問自答した。教室を、さらに、本気で運営していきたいとの思いが強まった。
本能に則った社会貢献を実践し続けるためには、経済的にもしっかり回していく必要がある、とも考えた。そこで融資を受け、新たな教室の開設に踏み切った。
2020年には、中学生以上にも広げるため、自習室を完備した受検論文作文アカデミーをスタートした。中学生だけではなく社会人の入塾も受け入れる。
さらに今後は、生徒へのキャリア教育もやっていきたいと考えている。塾のOBや社会人を招いて、仕事の話をしてもらう。
塾の子ども達にも「命を立てる」生き方を実践するきっかけづくりをしたいと考えている。
●文章を書く、とは思考し判断し、想像すること
ところで作文ときくと、「文章表現豊かに、文学的に」とつい思いがちだが、受験や社会で求められ文章力は、客観的、多角的にものごとを捉え、的確でわかりやすく文章にすることだ。
ちゃんとできるようにするには、事象を見て、聞いて、想像力を働かせて推測したり仮説を立てて自分なりに答えを導き出す必要がある。
今の子どもたちは、指示を待つ子が多い。何もせずに待っているだけ、というのではなく「次どうするの?」といわば積極的に、指示を仰ぐのだ。自分で考えたり判断して実行することができない。間違うことを極端に恐れる。
そんな子どもたちに漠然と「好きなことを書いてみて」と言っても急に書けるものではない。
あおぞら作文教室では、書き出しを「わたしのやっている習い事は、スイミングです」のように示して、その続きを書いてもらう方法をとっている。

ただ教室は、作文をうまくするためのスキルアップだけが目的のものではない。
学校では、5科目の成績や校則を守れているか、指示に則った行動をとっているか、といった学校や教師の目線で子どもたちを評価する。だが学校で評価されていることが子どもの全てではない、と真野さんは考える。それを何より、もっとも身近な保護者の方に理解して欲しいと考える。
そこで教室では、得意なことを引き出す機会、脳を柔軟に働かせ想像力を活性化する活動を取り入れている。
子どもたちには様々な可能性がある。折り紙が得意な子もいる、カードゲームに熱中する子どももいる。折り紙がよく出来たこを褒めると、自己肯定感がぐんとあがる。その調子で作文も書いてねといえば、張り切って書き出す。
「私の仕事は、”考えてる?”と、投げかけ、思考するための刺激を与えること」と真野さんはいう。
本当の教育とは自ら学ぶ力を身につけることだと考えている。
学ぶ目的がわかれば、おのずと意欲も湧いてくる。自分から勝手に学び出す。
目的に向かって学びつづければ「命を立てる」道がきっと見つかる。
これは自身が歩んできた道でもある。
ウエブサイト
プロが教える!
受験作文 個別指導の「あおぞら作文教室」
友だち追加
http://sakubuncafe.com/
真野さんのお仕事5箇条
●命を立てる生き方を実践する
●作文力は判断力と想像力
●教える側の役割は自ら学ぶ力を身につけること
●「得意」と「好き」が、仕事や社会貢献につながる
●天命を継続するためには「経済をつくる」
知識や技能を、必要とする方に分かり易いかたちで教え、
その人たちの仕事や生活に役立ててもらう。
それが教育やコンサルティングと言えます。
また、その人本来の良さや、ちからを引き出すのも教育です。
仕事の内容は、決して一方的に「教える」ことにとどまりません。
教えた相手からも、報酬以外で必ず何らかのフィードバックがあり、
互いに学び合い成 長し合えるものです。
教育やコンサルティングは提供する側とされる側だけのものではなく人、人と人の関係、システム、コミュニティそのもののさらなる発展 につながる仕事だと言えます。
関連サイト http://nariwaijob.com

判断力、想像力を引き出し
書ける子、自ら学ぶ子を育成する
真野玲子さん
(あおぞら作文教室講師/株式会社 立命 代表取締役)
【モットー】
「命が立つ」生き方を全力で実践
【なりわいのすじみち】
父親はスポーツ、とりわけ大の野球好きで、家にはつねにスポーツ新聞があった。子どものころは、野球中継があると好きな番組が見れなかったが、やがて好きになっていった。それは父との唯一の接点でもあった。浪人時代に通った予備校の授業では、みっちりと小論文の書き方を学んだ。2年目にのぞんだ大学受験はもともと得意だった作文力を生かし英国小論文で受験できる大学を選びそのなかで、早稲田大学に進学。卒業後は、所属していたゴルフ部のOBの縁もあり、野球雑誌の出版社に採用された。
1年間浪人生活を送った東京での予備校の第1回目の授業は衝撃的だった。いささかの無駄もなく、テンポよくかつポイントをおさえた内容で展開される。受験科目は、英国小論文に決め、小論文の授業は、とくに熱を入れてのぞんだ。講師からよい評価を得たくて自主勉強会を開くなどとくに力を入れて勉強した。客観的に物事を捉え、伝えるべきことを表現力豊かに文章にする基礎はこの授業で身につけたといえる。大学卒業後は出版社に入社。ここでさらにブラッシュアップした「書く力」「構成する力」が、現在の作文指導の礎となっている。 |
●「田舎の女子高生」が受けた衝撃
静岡の、女子のみの進学校に通っていた。東京の大学に行きたくて受験にのぞんだものの一年目は思うような結果にならず、浪人することを決めた。母は地元の大学への進学を望んだ。一方、父は「行くなら東京の大学を目指せ」。父の言葉をうれしく受け止め、予備校の指定校推薦を受け上京。女子寮に住まいながら予備校に通うこととなった。
予備校の授業は、田舎の女子校出身者にとって衝撃的だった。効率的でわかりやすく、なにより受験に特化した内容。
講師も若く、魅力的だった。通っていた女子校は進学校ではあったものの、高齢の教師も多く教えかたはのんびりした雰囲気だったから大違いだった。がぜん張り切りだした。
当初は、比較的成績のよかった数学を含めた受験科目を考えていた。ほどなく東京のトップ校の卒業生たちには太刀打ちできないことがわかった。そこで志望校は英・国と小論文で受験できる大学に絞った。
予備校でとくに力を入れたのは小論文の授業だ。もともと書くことは好きだった。予備校の同級生たちと勉強会を開き、A評価をもらいたい一心で勉強し、腕をあげていった。
ひたすら勉強づけの日々を過ごしたのち、2年目にはみごと二つの大学に合格。考えたあげく早稲田大学に進学した。
●ゴルフ部とスポーツ雑誌
大学に進学すると体育会系ゴルフ部に入部した。高校でソフトボール部にいた真野さんは当時ショートカットで筋肉もりもり。体育の授業でゴルフがあり、豪快にカーンと飛ばしていたのに目をつけたゴルフ部の監督に「スカウト」されたのだ。
ほんとうはゴルフサークルに入りたかったが女子はいかにも女子大生の雰囲気のメンバーばかり。自分の居場所ではないと判断した。ただ、ゴルフ部に入ったことは、就職活動で功を奏した。志望先としてめざしていたのは、スポーツ雑誌を出版する出版社。スポーツ紙ではなく、スポーツ誌づくりに関わりたかった理由は、ひとつのネタをじっくり掘り下げて取り上げることに魅力があると感じていたからだ。
なんと、その会社の社長が、早大ゴルフ部出身だった。学生連盟の理事長でもありあるとき会合で話をする機会があった。卒業後はどこを目指しているのかを聞かれ、いさんで「御社です!」と答えた。
そんなご縁がつながり、卒業後は、志望通りの出版社に採用がかなったのだった。
●週刊誌編集者時代に学んだこと
配属されたのは、野球メディアの編集部。編集者は特定の球団の担当となり、あらゆるネタを取り上げることになる。編集者がすべての取材を担うのはとうてい無理なので、取材と記事づくりはスポーツ紙の記者に原稿料を支払って依頼した。
携帯電話がない時代。ホテルや球場に電話をかけて記者を呼び出すしかない。ところが、なかなかつかまらない。つかまっても多忙な記者に、締め切りまでに記事を書いてもらうのは、至難のわざだった。
「編集部はいつも怒号が飛び交ってましたね(笑)」。
とはいえ、記者とは、会えば「どうもー」と和やかに会話をかわし、なんども飲みに行った。話が盛り上がり午前様になることもしょっちゅう。
仕事は楽しくてたまらなかった。帰宅も惜しんで働いた。そんな仕事ぶりが成果としても認められ、社内表彰もされた。
「思い」がこもる文章が、読み手を感動させることに気づいたのもこの時期だ。
入社2、3年目、甲子園への出場が決まった東北の甲子園取材の現地担当をすることになった。ぜひともやりたかった仕事。うれしかった。
ところが急遽、出場高校出身の記者が担当することになってしまった。
先輩とはいえ、自分より原稿が決してうまいとは思えないその先輩に「横取り」されたように感じ悔しかった。
でも、試合後の原稿を受け取った真野さんは、電話で「直すところは一つもありません」と伝えていた。
「その先輩、最高の原稿を書いてきたんです」。
先輩の他の原稿が本当にうまかったかどうかはわからない。
ただ鮮やかに、甲子園のシーンが目の前に広がるような原稿だった。ほんとうにいい原稿はひとを感動させる。そのことを実感する経験だった。
無我夢中で走りつづけて4年半経ったとき、結婚の機会が訪れた。12歳年上で、記者として、社会人として大先輩の同僚だった。知識が豊富で、生意気ざかりの自分を叱ってくれるのも心地よかった。
結婚を機に、出版社を退職した。
●子どもたちは遊びのなかから学ぶ
結婚後、興味のあったカラーコーディネーターの勉強を始めたところ、2級資格をとったのちに妊娠。子育てと家事の毎日を送ることになった。

長女が小学生になり、宿題の作文を教えるようになった。とはいえ、自分の子どもだけに、できないと叱り、なぜこんな簡単なことができないの?などと指示的な口調で言ってしまう。
とくに衝動的で注意力散漫な長男には手を焼き、叱責することが多かった。そのせいか長男はいっときは「国語嫌い」になったという。
「今思えばダメ親だったんです、わたし」。
子育てに悩んでいたころ、足立区が協働をめざして公園で緒に遊び見守り活動をする「パークエンジェル」という団体を作るための講座が開かれることを知り、参加し始めた。
活動をともにするうち、「学び」は遊びのなかから生まれる、ということに気づいた。子どもにはそれぞれ特性があること、個性が強く出る子どもは医学用語でいう発達障がいの可能性があることも知った。自身の子どもや、自分自身の特性を思い浮かべると、当てはまるかもしれない、と、初めて自分自身や子どものありようを客観視する機会も得た。
長男が小学3年生になるころ、もっと学校のことを知りたい、と考えるようになった。足立区のホームページで小学校の介助員という仕事を知った。応募したところ採用され働き始めた。
仕事は身体障害を持つ子どもが授業を受けるときに、そばについてサポートするというものだった。結婚前に訪問ヘルパーの資格取得のために学んだことも生かされた。
介助の対象は脳性麻痺の子どもたちなど。字がかける子もいれば、名前さえ書くのが難しい子もいた。授業中はそんな子どもたちの手元をコントロールしてあげながらなんとなく、本人が書いているようにサポートした。
介助員として学校にしばしば出入りするうちに小学校の様子が徐々にわかってきた。子どもたちは本当に忙しい。通常通りの授業をこなしながら、行事があれば20分の休み時間にまで行事の練習をすることもある。
国語の時間の、文章を書く授業も、じっくり思考しアウトプットするという丁寧な流れをつくるのはとうてい無理そうだった。
先生が簡単な課題を伝え10分、15分ほどで書くように指示する。その間、先生はやることが満載だ。トラブルがあれば対応しなければならない。せっかく優秀な先生がそろっているのに、その力が十分発揮できていないと感じた。
同時に、長男が書けないのも当然だ、と思えるようになった。
そんな現状や自宅で子どもたちに教えようにもなかなかうまくいかないことをママ友に伝えたところ、「うちの子も一緒に教えてくれない?」と提案された。
早速、自宅近くで場所を借り、最初は4人ほどの子どもたちを相手に、作文教室を始めた。最初は月謝などは取らず、場所代を折半した。
●命を立つ
そんなスタイルの作文教室はしばらく続き、徐々に生徒も増えてきた。作文教室は、次第に自身のライフワークともいえるものになっていった。

振り返ってみれば、それまでなんとなくうまく行った。大学卒業後は希望の職業につけた。結婚をして三人の子どもに恵まれた。子どもとの公園遊び活動、学校介助員では子どもの「育ち」に関わる知識と経験を得た。さかのぼれば「書くことが好き」だった子どものころ、小論文を受験科目として夢中になって学んだこと。これらすべてがつながり「子どもに作文を教える」ことがふっと湧いてきて、教室を開くことにつながった。
だが「わたしは本気になって子どもたちの学びや育ちに取り組んでいるだろうか、命を立てる生き方をしているだろうか、いやまだだ」と自問自答した。教室を、さらに、本気で運営していきたいとの思いが強まった。
本能に則った社会貢献を実践し続けるためには、経済的にもしっかり回していく必要がある、とも考えた。そこで融資を受け、新たな教室の開設に踏み切った。
2020年には、中学生以上にも広げるため、自習室を完備した受検論文作文アカデミーをスタートした。中学生だけではなく社会人の入塾も受け入れる。
さらに今後は、生徒へのキャリア教育もやっていきたいと考えている。塾のOBや社会人を招いて、仕事の話をしてもらう。
塾の子ども達にも「命を立てる」生き方を実践するきっかけづくりをしたいと考えている。
●文章を書く、とは思考し判断し、想像すること
ところで作文ときくと、「文章表現豊かに、文学的に」とつい思いがちだが、受験や社会で求められ文章力は、客観的、多角的にものごとを捉え、的確でわかりやすく文章にすることだ。
ちゃんとできるようにするには、事象を見て、聞いて、想像力を働かせて推測したり仮説を立てて自分なりに答えを導き出す必要がある。
今の子どもたちは、指示を待つ子が多い。何もせずに待っているだけ、というのではなく「次どうするの?」といわば積極的に、指示を仰ぐのだ。自分で考えたり判断して実行することができない。間違うことを極端に恐れる。
そんな子どもたちに漠然と「好きなことを書いてみて」と言っても急に書けるものではない。
あおぞら作文教室では、書き出しを「わたしのやっている習い事は、スイミングです」のように示して、その続きを書いてもらう方法をとっている。

ただ教室は、作文をうまくするためのスキルアップだけが目的のものではない。
学校では、5科目の成績や校則を守れているか、指示に則った行動をとっているか、といった学校や教師の目線で子どもたちを評価する。だが学校で評価されていることが子どもの全てではない、と真野さんは考える。それを何より、もっとも身近な保護者の方に理解して欲しいと考える。
そこで教室では、得意なことを引き出す機会、脳を柔軟に働かせ想像力を活性化する活動を取り入れている。
子どもたちには様々な可能性がある。折り紙が得意な子もいる、カードゲームに熱中する子どももいる。折り紙がよく出来たこを褒めると、自己肯定感がぐんとあがる。その調子で作文も書いてねといえば、張り切って書き出す。
「私の仕事は、”考えてる?”と、投げかけ、思考するための刺激を与えること」と真野さんはいう。
本当の教育とは自ら学ぶ力を身につけることだと考えている。
学ぶ目的がわかれば、おのずと意欲も湧いてくる。自分から勝手に学び出す。
目的に向かって学びつづければ「命を立てる」道がきっと見つかる。
これは自身が歩んできた道でもある。
ウエブサイト
プロが教える!
受験作文 個別指導の「あおぞら作文教室」
友だち追加
http://sakubuncafe.com/
真野さんのお仕事5箇条
●命を立てる生き方を実践する
●作文力は判断力と想像力
●教える側の役割は自ら学ぶ力を身につけること
●「得意」と「好き」が、仕事や社会貢献につながる
●天命を継続するためには「経済をつくる」
- テーマ:なりわいのかたち
- ジャンル:就職・お仕事
- カテゴリ:なりわい「教育・コンサルティング」
- CM:0
- TB:0